もともとは寡黙な僕だったが、信濃町時代の頃からは少しずつ普通に話せるようになっていました。大学1年、2年、フランス語にはまったのが良かったんだと思います。話し方がフランス語のリエーゾンを使うようになって、吃音はなくなり、普通に友達と話せるようになっていました。
大学が終わる6年の頃にはそういう言葉の問題は全く関係な くして、さて次はどうやって自分の将来を決めようかと考えている時期になってきました。
僕と父親とはすごく仲良くて、山形県の田舎に帰郷した時に、最上川の土手に連れて行ってくれて、蛸をあげながら、二人でひもをひっぱりながら、風を感じながら、いろんなことを話してくれました。父親も医師だったので、僕がこの次どういう選択をするかは興味を持っていたみたいでした。
それまでは母親と話すことが多かったんですけど、実際社会人になろうとした時には、母よりも父親に相談することが多くなっていました。
いろんな話をたくさん話して聞かせてくれました。でもその多くの話の中で一つだけ心に留まった話がありました。

父親が終戦後、東北大学を卒業して開業をする時に、当時は結核は不治の病だったので、呼吸器内科を専攻にしたということでした。結核学会はすごく大きな学会で、学会場には入りきれないくらい人が多く集まり、それはそれは大きな学会が結核学会だったということでした。
その後、すぐに結核の治療薬が発売され、結核は治る病となり、当時の薬代は高いもので、父が結核の治療をすると、サラリーマンの1ヶ月分のお給料がもらえるくらい、結核の専門医は、儲かったらしいのです。
ところが、それから数年が経ち、結核の治療がスタンダードになって、一般内科医が使えるようになってしまうと、父親に集まる患者さんが減って、スペシャリティがコモディティ化していく現象が起こってき ました。
あれだけ大きな結核学会は、なんと学会場に行ったら数十人しか集まらないような、とっても小さな学会に変わってしまっていたそうでした。
この話は当時の僕にとってはすごく教訓になった内容でした。
今メジャーだ、今のマジョリティだと言われる病気の専門家になるのは危ない。もし何か特効薬ができてきたら専門性がなくなってしまう。ただの普通の医者になってしまうという教訓になりました。
医師という職業においても将来性を見通す力があるかないかがその人の一生を決めるという話になって僕の心に響きました。

そこで選んだのが「糖尿病」という病気の専門分野でした。僕が大学を卒業した1983年の当時は、まだ糖尿病はマイナーな病気と言われていました。良い治療法もなし、難病の人が多く、失明したり足を切断する人がたくさんいて、とても治しにくくて面倒な疾患でした。だから、誰もそういう分野には関わりたくないし医学部の卒業生達には人気がない専門分野でした。僕の卒業の一つ上にも一つ下にも糖尿病を専門とする卒業生はいなかった。そんな時代でした。
そして、何故かは解らないけど、僕はこういう糖尿病とか代謝とか内分泌とか、そういう授業だけは大学生の時代にちゃんと授業には出ていました。なぜかこういう分野には興味があって、将来性があるんではと感じ、自分から勉強しようという分野に思えていたわけでした。ノートも、しっかりと自分でまとめていました。
当時、慶応大学は糖尿病の治療において特に有名な病院ではありませんでした。そのため、私はこっそり循環器科の教授に相談に行き、糖尿病を専攻したいと相談しました。ちょうど大学6年生の終わり頃のことです。
教授は、東京都済生会中央病院か東京女子医大に行くことを勧めてくれました。その二択のうちで、どちらのほうが先輩が多いか尋ねると、東京都済生会中央病院だと教えてくれました。
せっかく苦労して入った慶応病院を離れるか、それとも糖尿病で有名な専門性が高い東京都済生会中央病院を選ぶか、大学6年生の私にとっては大きな岐路にたつ選択でした。
慶応はブランドでしたから、その世間の目を気にしていくのか、
それとも、自分が信じる道を選ぶのか、
残酷な選択でした。慶応病院から帰る時には
いつも振り返ってました。
ブランドを捨てて自力でいきていくしかないという決断が必要だったのでした。若くて起業する若者の心情と、同じ心情だったと思います。

当時は、慶応病院では、同級生達の多くは腎臓内分泌代謝の方に進もうとしており、糖尿病を先行しようとする同級生や友人は誰も、いませんでした。
ですから、そこは、思い切って、自分が好きな分野、自分が得意となれそうな環境で早くから腕を磨こうと考え、東京都済生会中央病院にいく道を選択しました。当時、東京都済生会中央病院には、堀内光先生という著名な医師がいて、その膝元で教えを請いながら働こう と決めたわけです。
そこで、機会をみて、東京都済生会中央病院に、ここで勤務したい、と申請をだして面接を受けることになりました。その時の面接官は副院長の高木先生でした。そして、高木先生からは開口一番、こう言われました。
「 本当に、君はここで働きたいの? この病院は確かに糖尿病で有名な病院ではあるけれど、未だかつて、糖尿病を専攻したい、といって入局してきた医師は誰もいない。糖尿病はマイナーな病気だし、将来、開業するにも、つぶしがきかないかも」

この言葉を聞き驚きました。有名な病院なのに、これまで誰も糖尿病を専攻しようとして、この病院に入ったことがないということです。これは大きな矛盾でした。
しかし面接まで受けた以上、もう後には引くことはできませんでした。
だから、「 いえ、僕は絶対将来糖尿病はメジャーになると思います。」としてガンと言って自分の主張を曲げず、ぜひ入局させてくださいとお願いして、その場を去りました。そうやって、結局は慶応病院を去ることを決意しました。
自分は馬鹿なのか、、それとも将来を見据えることができる先見性のある医師なのか、
ほんとに、いちかばちかの、ギャンプルでした。

1983年、日本は高度成長期のまっただなか。だから、贅沢をする人たちが、増える。
食べ過ぎる人が増える。肥満が増える。だから、糖尿病は必ず増える。そして、糖尿病は
必ず、ただの「贅沢病」から「国民病」になるだろう。
そういう、かっこたる自信がついたのは、それから相当、数年後でした。
ですが1983年の当時は、自分の「先見性にかけるしかない」、「自分の好きなことにかけるしかない」という断崖絶壁に立つ覚悟をするしかありませんでした。
もし、その時に、stay hungry, stay foolish という言葉があったら、まさしく、その言葉の意味通りの選択をしていたわけです。