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勤務してから1年目と2年目はいわゆるレジデントという形で必死に働いきました。365日ほぼ休みがないぐらい、毎週当直。めちゃくちゃ多忙な日々をこなしていました。

 レジテントの期間は、いろんな専門科を回らなくてはいけませんでした。幸運だったのは麻酔科に回された時。暇だったので先輩からPC8801を3万円で譲ってもらい、始めてキーボードを叩いていました。病院内では、僕はインベーダーゲームをしているように思われていたが、しかし実際には独学でBasic言語を覚え、1ヶ月で統計ソフトを作り完成させていました。

3年目になり、ようやく糖尿病外来の担当医を任されることになった。病棟も自分一人で患者さん16人ぐらいを担当。一人立ちができた糖尿病専門医になってました。外来の診察は午前中、30人を超えて大忙し。病棟もフル回転。外来はほぼ3分診療で、じっくり患者さんに説明している時間はなかったほど多忙でした。そして病棟にいくと複数の糖尿病患者から様々な質問が飛んできていました。特に外食をどう食べたらいいか、という質問を同時に浴びる事が多かったのでした。

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そこで考案したのが、1日の指示エネルギーごとに料理のカロリーやエネルギー配分をチェックできるという書籍。「外食コントロールBook」は9万部、「外食カロリーBook」は初年度だけで60万部とベストセラーとなった。こういう発想をできる医師は少ない。周囲からは「アイディアマンだね」と言われるようになった。誰も考えつかないようなアイディアを具現化して、周囲を喜ばせるというのは中学時代からの癖だったから、社会人になっても同じ事ができたのは嬉しかった。これらの書籍を発売することによって、患者さんから「1回ごとにこの料理はどう食べたらいいですか?」という質問は来なくなりました。

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純粋な社会貢献もしてみたかった。そこで巨人軍のガリクソン投手の自叙伝を出版し印税300万円を糖尿病協会に全額、寄付をしました。全国のI型糖尿病の子供達、ご両親達からは沢山の感謝の言葉や握手を頂いた。これが自分が望んでいる医師の姿、と本気で思っていました。

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次に申し込まれたのは製薬メーカーのPR冊子の依頼。タイトルは「糖尿病ってどんな病気?」。この冊子は400万部刷られ全国に配布された。糖尿病人口が800万人の時代で400万人に配布され、二人に一人は僕が原作した漫画を読んでいた。東京女子医大教授の平田先生からは「これは傑作だね」って褒められたことは今でも覚えています。その後、日刊ゲンダイから新聞一面に僕が原作の医療漫画を連載してという依頼があり、僕が原作の「漫画のクリニック」という作品は全国のいたるところで6ヶ月間、日々、読まれていました。

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そうこうしているうちに、僕の周辺にはたくさんの出版依頼が来て、書店には僕の方がたくさん並び、知名度はどんどん高まっていきました。30代前半の若造の医師が、「なぜこういうオリジナルな作品ばっかり作れるのか」って、最初は病院の中で嫉妬している人たちもたくさんいました。ですが、さすがに書店の医学書籍棚の半分ぐらいに僕の本が平積みで並び始めると、患者さんのみならす、病棟の婦長さんたちが「先生サインしてください」と言ってくれるようになり、ようやく世間から認められるようになってきていました。

実際、こう見ると表面的な浮ついた仕事しかしていないように見えます。でも実際の臨床現場では真逆でした。僕は難病って言われる患者さんの担当医になる事が好きで、難病の患者さんが入ってくると、自ら担任医になりたいって申し出てました。他の医師が治せない病気の原因を見つけて治すことは凄く勉強になりました。そうした患者さん達の疾患の原因をみつけ治した時の快感は医師でないとわからない、とても素晴らしいものです。そうした体験を逐一、医学の学術論文にしていました。

その中には、日本で最初に私が発見した病気や、世界で最初に私が発見した病気という新しい疾患もありました。(後日談になりますが、特にミトコンドリア糖尿病においては、僕の論文はダントツでした。世界中の学術論文の中でもダントツでした。ですから有名な雑誌に引用されたり、2000年以降には、そうしたことを繰り返していました。理由はシンプルで、当時難病と言われていた患者さんの中にミトコンドリア遺伝子異常を持った患者さんが沢山いて、その患者さんたちが僕の外来に集まっていたという理由からでした。その学術業績のおかげで、最終学歴は日本医科大学の客員教授にまでなることができました。)

他の医師たちが「もう治しようがない」と言って捨てていったゴミのような患者さんたち。そのゴミのような患者さんたちを僕は拾っていました。そしたら、なんとそのゴミがすごい宝物に変わっていた。そんな経験をしていたのです。人が捨てるものには運がついてるなって、すごくその時思いました。

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僕の臨床医師としての志向は、こういう様々なリアルな経験から、その価値が始めて認められる事を知るようになっていました。思い返せば幼少時から吃音で、自分で考えて独学するしかないという環境に慣れていた習慣から、誰も「発想だににしなかった」というような独創的なアイデアを考えて、それを必ず実現するタイプになっていたのかもしれません。社会人になってからは、それを具現化して作品にして、みんなの前で見せて使ってもらう、楽しんでもらう、喜んでもらう、学んでもらう、そういう姿勢は、ずっとあって、今でもそれは変わっていません。

 

ともかく当時から、他人の真似は絶対にしたくなかった。どうせやるなら自分だけしか考えられないような独創的なオリジナルな発想のものしか作りたくなかった。

 

そんな生意気な30歳代の男性医師が僕でした。

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