大学3年目になると、今度は信濃町の慶応病院にある大学施設に通うことになる。その前にまず住居を考えなくてはならず、母親と相談し、兄弟姉妹3人で住れる一番いい場所をマンション探しに行った。その結果、中野坂上に中古マンションがあった。それを一室買って、そこに僕と妹たち2人と3人で住むことになった。
元々、そんなに遊び人ではなかったから、信濃町に行ったら真面目に勉強しようと思っていた。だから信濃町の大学病院には最初は真面目に通学をしていた。
日吉では、同級生とは言っても大学に行くのは週に数日だったから、どういう人たちが自分の同級生か分かっていなかった。でも今度は慶應病院に通学するようになると、同級生が誰かってことが分かって、こういう同級生の中で勉強するんだってことが初めて理解できた。
だけど、全く予想だにしなかったことがその時に起こっていた。この慶應大学の医学部の同級生はみんなカンニングをするチームを作っていた。もうすでに社長というような立場の人がいて、彼と、その組織がデュプリを作って、試験の前にはそのデュプリを同級生に売っていた。
だから僕たちはそのデュプリを買って、それで勉強した。Sノートと呼ばれていた。
家庭教師のバイトをして、収入をえて、そのデュプリを買ってあとはクラブ活動に励んでいた。
大学3年目からは歌舞伎を見に行ったり、映画を見に行ったりする時間はなかった。でも、学内でクラブ活動をすることはできた。そこで簡単にできて、大学病院の中にコートがあって、すぐにできる軟式テニス部を僕は選んだ。よって、授業が終わると、すぐさまテニスの練習をやっていた。

期末試験とかが始まると必ずそのSノートっていうのが出回ってきて、それを僕らは確か1万円ぐらいで買って、それで期末試験の勉強をした。同級生100人の中で10人ぐらいが授業に出て(出席率は10%)、一生懸命ノートを取って、そのノートをデュプリでまとめる。そのノートを複製したものを、残りの90人が買って、それで勉強する、という、そういうビジネスモデルだった。

デュプリチームのお世話は単にデュプリを売ることだけではなかった。実際に期末試験の現場では、カンニングのやり方を指導し、カンニングの手ほどきを教えてくれた。前日から試験場の北里講堂で座る場所を決められたり、どういう順番でカンニングペーパーを流すかみたいなことを教わったりした。
ともかく、大学の3年生からほぼ6年生の半ばぐらいまでは、デュプリとカンニングだけで進級が、できました。僕らは、62回生と呼ばれていた。この学年は、ともかくチームワークがよかったし、のりが、よかった。本来、みんな賢いはずなのに、敢えて勉強せず、「楽してみんなで進級すること」を支援しあう学年だった。協力してカンニングするのもOK. 当時、東大医学部の知人がいて、彼に聞いたら、東大では授業の出席率は90%以上。カンニングは御法度だったようだった。

カンニングという悪事でつながった同士というのは、意外と大人になってからの絆は強くなる。オーシャンズ11などの映画でもあるように、詐欺師同士が互いに仲間を大事にするように、悪いことを一緒にした同士はその後も、ずっと仲良くなれる。そんなチームワークがあったのが慶応大学の医学部でした。僕はその時初めて、東大じゃなくて慶応に入ってよかった、そう実感したのでした。

おかげで大学時代はテニスというスポーツを謳歌して過ごすことができました。特にキャプテンだった時代はほとんど授業に出た記憶がないぐらいテニスに没頭していました。そこで、先輩とか後輩とかの絆ができたし、その後、医師になってからは、そういった人脈はすごく役立って、とても大きな財産になりました。
同級生の中には競争意識とかは全くなくて、むしろチームプレイとかチームワーク、あるいは絆を強めることといった意識が強い秀才達のグループの中にいれたことが、その後の人生にとてもラッキーなことでした。(その後、62回生からは、沢山の教授が生まれました。)そして、2026年の現在、卒後40年以上たっても毎年、同窓会が開かれています。

言い訳がましいかもしれませんが、62回生の僕たちは、頭が悪いからカンニングしていたわけでは
ありませんでした。全員が大学入学の際には、48倍という競争率で勝ち残って合格してきた、普通であれば、秀才と呼ばれる学生ばかりでした。ですから、「勉強すれば、できる」、それは誰もが当然のように思っていたわけです。
では、なぜ、デュプリを作りカンニングチームを作ったりしたのか? 僕なりの考察を述べます。それは、正直、教壇にたつ講師たちの指導や、その内容が極めて退屈であり、つまらなかったからです。私達が15分で理解できるような内容の話を、だらだらと1時間、聞かされるのには、うんざりでした。今で言えばタイパが悪い講義内容だったわけです。講師は講師で、昔ですから「俺は講師だから偉いんだ」という構えの講義をします。しかも、大学内で分担されたから、しかたなく話す、みたいな感じの講義が多かったと記憶しています。当時は、まだまだ白い巨塔のような時代で、講師がなにを話そうが、講師達にとってはどうでもよかったのかもしれません。PPTもなく、スライドもない時代でした。そうなると講師たちは、その場で思いついたことを、黒板にチョークで書く。それを、だらだらと説明する。現代では考えられないほど「効率の悪い」講義ばかりだったわけです。
そうなると、受講している私たちも、タイパの悪い講義に、お付き合いするのは、ごめんこうむります、という感じでした。しかも、その講義をうけようが、うけまいが、期末試験には、講義をうけた学生が有利になるような問題はでませんでした。
となると、どうやって、そのタイパ、つまり、Time Performanceが悪い状態から抜けだそうかと、学生達、みんなが考えます。そして、それに対する回答が、デュプリを作り、カンニングチームを作rるという、一種の、62回生、独特のクレバーな知恵だったわけです。つまり、頭が悪いのではなく、極めて「要領がいい学生」たちばかりがいた、というわけです。
「要領がいい」とは、状況をうまく判断して、ムダなく・効率よく・スマートに物事を進められることを指します。そういう同級生たちだらけでしたから、社会人になると、多くの同級生たちが、どんどん出世していきました。慶応大学の内部では「花の62回生」と呼ばれるくらいに、62回生は当たり年で、優秀な人材が沢山いて、たくさんの著名が教授たちが、のきのきとでてきました 。
62回生が優秀であった証拠は、あります。大学6年生の夏、東医体という運動会が終わったら、いっせいに、今度はカンニングができない、頑張ろう、と猛然とチャージしました。
爆速で国家試験の勉強をし、ほとんど全員が、たった5ヶ月くらいの自己学習で医師国家試験をパスしました。私が慶応大学医学部に入学して、良かったというのは、こういう体験でした。世の中、頭のいい人間だけが出世するだけではない。むしろ、頭がいい、は当たり前で、そこに「要領がいい」プラス「チームを大切にする」という要素が加わらないと社会人としては通用できない、むしろ、「要領よくクラブと勉強を両立できていた」人物のほうが、将来、出世する、、そういうリアリティを、まのあたりに大学時代に体験できた、それが一番の大学時代の「学び」でした。
