中学になると野球以外のスポーツをやってみようと思うようになりました。それで選んだのが当時流行だったバレーボールです。
偶然にもバレーボールに入部したのは同級生で6人でした。
6人制バレーが始まった頃でもありました。ですから1年上の先輩が2人でしたので、同級生が6人でちょうど6人制バレーが同級生で組めるというタイミングで中学校に入りました。


小学校時代は全く勉強をしない僕でしたが、中学校になると親から勉強部屋を1個もらいました。そこに大きな机を置いて、何もやることないからまず勉強を始めました。
そこで1つだけ気づいたことがありました。中学校から新しい教科があったのです。それが英語。そして英語の学習をしているとなぜか僕のどもりが日本語ほどはひどくないわけです。それに気づいた僕は英語を勉強しておけばなんとかどもりに気づかなくなる。だから頑張ろう。そういう単純なモチベーションに変わって英語を一生懸命勉強するようになりました。
最初は毎朝、NHKの基礎英会話1をテレビもしくはラジオで勉強し始めました。次第に構造が分かるうちに英語が楽しくなってきて、だんだん基礎英会話2、そして基礎英会話3も一緒に勉強するようになりました。理由は簡単で、時間が連続していたからです。
タイムパフォーマンス(タイパ)を重視していた僕は、朝6時に起きれば基礎英会話1、基礎英会話2、基礎英会話3を聞き終えると、ちょうど中学校に行くバスの時間に間に合うようなタイミングでした。どうせならその3つを同時に聞いてやろうと思いました。


基礎英会話1、基礎英会話2、基礎英会話3を勉強しているうちにだんだん物足りなくなって、個別指導をしてほしくなりました。そこで初めて母親に頼んで、知り合いに英会話の先生がいると聞いて、その英会話の先生から個別に教えてもらうことにしました。
そして半年から1年ぐらいの期間、中学校1年生から英会話の勉強をし始めました。すると中学校2年には英検2級を取れるレベルまで上達しました。
本当に偶然なのですが、僕らが中学2年生になった年から、中学校で全国的に6人用バレーが普及し始めることになりました。僕らはちょうど同じ身体能力の6人が同じ年代で揃っていたので、すぐにチームを組めてすぐに練習をすることができました。
一つ上の先輩は二人しかいなかったので、その先輩たちが卒業すればもう中学二年生で堂々と正規メンバーになることができました。僕は幸い当時、六人の中では背が高い方だったので、最初に正規メンバーになることができ、第二アタッカーの座を得ることができました。
修学旅行というのも初めての経験でした。そしてまた、女性の同級生と一緒に旅行するというのも初めての経験でした。
田舎育ちの僕にとっては、中学時代でいろんなことが初めての経験が多かったわけなのです。



中学2年夏過ぎになると、幸運なことがたくさん起こりました。先輩達が卒業し、自分たちが同級生6人でバレーボールのチームを作り、試合をすることができるようになったのです。するとみるみるうちに強くなりました。
山形県では1位、東北では1位、そして全国大会では東京で2位のチームに勝って、でも、第2試合で、宮崎県代表に負けて、全国大会では16位までの強豪チームとなりました。ですから中学校の2年半というのは、ほとんどバレーボールに時間を費やしていました。

驚かれるかもしれませんが、僕たちが中学2年でチームを作ってから、中学3年の夏まで、全ての試合で負けることはありませんでした。常に勝って勝ちまくって、負けたことを経験したことがないチームでした。
6人全体が すごい熱心で、朝早くから中学校に来て練習し、勉強が終わって授業が終わったらすぐに集まって夕方まで熱心に練習していました。たまたま6人が同じようなマインドを持ったチームだったので、いろんなことを自分たちで挑戦し、自分たちで勝手に強くなっていたというチームでした。

中学生でしたが、当時、Aクイック、Bクイック、Cクイック、回転レシーブなど、ほぼプロ選手ができるようなスタイルの攻撃ができたチームでした。だから事前には優勝候補とまで騒がれました。
ですが宮崎県代表には180cm以上の身長のブロッカーが2人おりました。どうしても僕はその2人のブロッカーの高い壁を破ることができなくて、全国大会の第2試合で負けてしまいました。
ただ、全国大会の第1試合では僕のサーブが11回連続で成功し、ひとりで11連続得点。それがバレーボール人生で最後の思い出になりました。

中学2年生の時に英語担当の東海林先生から呼ばれました。「どうして君は入学する時にはビリから3番目だったのに、中学1年生の終わりには成績1番になれたんですか?」と聞かれました。しかし、実際にはそれは吃音があったがために、英語を一生懸命やったことが貢献していたのでした。それを話して説明しても、東海林先生にはどうしても理由が理解してもらえなかったようです。
でも、英語ができたことで英語の弁論大会の代表にさせてもらい、それが、人前で堂々と言葉を話す最初のきっかけになりました。

東海林先生は面白い先生で、すごく可愛がってくれました。特に英語の授業では、ビートルズの新曲が出るとレコードを持ってきて教室で、それを流し、「これを覚えなさい」と言われました。
中学2年で英検2級を終えていた僕にとっては、中学3年からの英語の勉強というのは、ビートルズの歌詞を覚えることに変わっていました。
ちょっともてあました時間があると、いたずらをして遊んでいました。吃音があるから、言葉で、いたずらはできません。だから、手品のような、いたずらとか、周囲が考えもつかない事をした、いたずらは、よくしてました。絵を描くのも好きだったので、黒板にいたずらしたり、なんか、アイディアひとつで周囲を笑わせるという意味での、いたずらです。誰も傷つけるものではありません。吃音があって言葉が話せないので、パントマイムに近い、いたずら、が多かったでした。現代でいうと、ブルーマンが演じているようないたずらです。
中学3年になってからは、それを学校の運動場で昼休みにやるようになり、学校中の生徒達がみている前で、いろんな悪戯をしました。それが学校中の話題になると、中学1年になったばかりの妹は、とても恥ずかしかったらしいです。

ある時、同級生の一人とお互いに弓矢を一つずつ作って、どちらが遠くまで飛ばせるかやってみようということになり、そういういたずらを学校の野外の運動場でやることにしました。学校中が注目して、二人とも交代に自分が作った弓矢でどこまで遠く飛ばせるか、そんな悪戯をやっていました。
最後の結末は僕の負けでした。僕はうっかり弓矢を真上に向かって放ってしまったのです。弓矢は真上に飛んでいき、僕からは真っ直ぐ見えて線ではなく、点になり、見えなくなりました。それでどこに落ちてくるかわからなくなり、怖くなって僕はそこから大逃げしました。
それを見ていた周辺の生徒達たちは大爆笑。そんないたずらばかりをしていたのが僕の中学時代でした。
