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慶応大学の医学部に合格できた。合格ラインは270点という噂だったが、僕の自己採点では271点。たったその1点の差で人生が大きく変わるという大ギャンブルをしたような感じだった。

住まいは日吉だった。六畳一間のアパートを借りて、そこから学校に通った。でも行ってみると学校は出席を取るだけで、あとはもう留年しないためだけの単位を取ればいいだけだった。それを知ってからは学校はその単位を取るだけに行ってあとは遊びの時間に使った

山形のど田舎生まれの僕にとっては、普通の人の「遊び」ということをやったことがなかった。山形には映画館はあったが、ポルノ映画が隣にあったので、映画館には近づいた事すらなかった。

 

まずは書店に行ってピアを買った。ピアを見ながら行きたい場所を見て、そして日吉から近い渋谷、そして渋谷から近い新宿、その2点に拠点を絞って、よく行くようになった。

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まず目をつけたのが渋谷の「ジャンジャン」(正式名称:渋谷ジァン・ジァン)でした。そこは、1969年7月から2000年4月まで渋谷にあった伝説的な小劇場・ライブハウスです。場所は渋谷公園通りの日本基督教団東京山手教会の地下にありました。
収容人数は200人未満の超コンパクトな空間で、舞台の左右に観客席が並ぶ独特の変則的なレイアウトが特徴。階段で並んで待つような狭くて熱気あふれる「アンダーグラウンド」な雰囲気で、文字通り「地下芸術の発信地」として知られていました。そして、はまったのが、シェイクスピア連続上演などで、毎月、見に行きました。おかげで、シェイクスピア作品は、ここでほぼ全作、楽しむ事ができました。

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妹は中村勘三郎のファンクラブに入っていました。それでたまたま「お兄ちゃん、歌舞伎見ない?」って誘われて、面白そうだなと思ったら、なんか知らないうちに日吉キャンパスで慶応の歌舞伎部に入っていました。

 

歌舞伎部に入ると、毎月1回東銀座の歌舞伎座に見に行くことが恒例となりました。3階席で毎月いろんな公演を見ましたが、そのうち僕自身は玉三郎にはまっていきました。

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僕が坂東玉三郎にはまったかというと、その理由は簡単でした。坂東玉三郎は午前の部主役、そしてまた午後の部も主役。そして1日だけ休日を置いて、またその翌月も午前の部で主役、午後の部で主役。そしてまた翌1日置いて、今度は歌舞伎座で午前の部で主役、新橋演舞場で午後の部と主役など、毎月主役を午前の部と午後の部でこなしていました。

この役者さんってどういう頭で、どこで練習して、どこで稽古して、どうやって主役の座を連続して継続してできるんだろう。その知能と体力、それから日本の伝統というものにすごく驚きを覚えて、そこには、なにかしらのノウハウがあるはず、と考え、それを追い求めるべく、玉三郎の追っかけをやっていました。

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僕はアルバイトとして家庭教師をやっていました。家庭教師1回やると2万円くらいもらったように覚えています。大学生にとって2万円は大金です。

そして当時、映画館は1つの映画を見るのに300円くらいでした。名画座とかそういう古い映画館があって、そういう映画館で見ると古い映画も名画も安い金額で見ることができました。ですからバイトで貯めたお金を持って、どんどん映画館に行き続けました。

正直、大学に入るまでは映画館に行って映画を見るってことは一回もしたことがなかったんです。ところが大学に入って1年目で、1年間で230本の映画を見ました。日々、日吉まで戻り日帰りに帰るのも大変だったので、新宿に泊まり込みで深夜映画を見たということも何回もありました。

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父は第二次世界大戦に負けて、それで日本に帰ってきて、極貧の生活を送った経験がある。だから僕に対して、お金の使い方について、ともかくお金は貯めるときにはしっかり貯めて、メリハリはっきりつけなさいと言われていた。自分に役立つこと、自分の身になること、能力のためになること、社会のためになる事にはお金を使いなさいということも言われていた。

 

だから、食べることと自分の身に役に立つことについては、父親はお金を惜しまなかったし、その意味での苦労は不要だった。だが、他人に自慢しようとか、そうした贅沢をしようという思いには反対で、アンチだった。虚栄は嫌いで、謙虚にコツコツと生きるのがよい、、そう父からは教わっていた。

同級生の中には、高級車を乗り回したり、みんなで旅行に行ったり、特に慶応は幼稚舎があるので、幼稚舎出身の仲間たちで集まって豪遊することなどもあったらしい。でも、僕はそういうところには呼ばれないで済んだ。

 

僕は大学からの外部入学だったし、そうした豪遊は苦手だった。だから必要最低限のお金で満足し、それでいながら、自分にとっては一番楽しい時間を過ごすことができた。小さい頃から苦労人の父からの教訓があり、それを守っていたせいなのかもしれない。

本当に本当に「田舎者」だった。同級生でも、東北から入学してきたものは僕一人だけだったし。他はみんな東京とか他の都会のいわゆる有名校出身の人たちばっかりだった。

新宿の西口には高層ビルが建てており、中学時代から好きだった女の子とデートしたことがある。彼女は東京に慣れていたので、新宿で高層ビルで食事をしようということで、そこに一緒に行ったことがある。

僕はそこの長いエレベーターに乗ったが、途中で怖くなって降りてきた。そんな思い出がある。つまり、田舎者の僕にとっては、東京では見たことがないものがたくさんあった。そして、何もかも、最初は怖かった。

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幼少時から吃音があって友達を作れなかったので、その癖は抜けてはいなかった。だから、一人で遊んだり、一人で何かを見に行ったり、一人で行動する方が自分には合っていた。

 

そうやって、日吉にいた1年目と2年目はあっという間に通り過ぎた。一人で楽しんで、一人で東京という街を知って、一人で遊び尽くした2年間だった。

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