2歳になった頃、妹のちえさんが生まれた。もちろん僕の記憶はないけど、写真にその記憶は残っている。ちえさんが大きくなったら、2人で並んでいる写真が増えた。ちえさんの写真はいつもだいたい僕と一緒に写っていることが多い。


家の周りには何もなかったけど、林や森、岩など、自然のものは多かった。私が岩に登ると、知恵さんがついてきたりしました。また、おもちゃの車 に乗ったり、妹が自転車に乗ったり、さまざまなことをして遊んでいました。写真を撮るとき、時々変顔する。それがまるでうちの娘のリサと同じだった。




自宅の近所には記念撮影を撮るいい場所なんてなかった。太陽光が当たる場所って言ったら天井の上。だから天井に登って記念撮影を撮った。妹は太陽が当たるコンクリートのベランダの上で写真を撮っていた。


裏庭には、鶏が住んでいる小屋と、天然ガスを吸い取るポンプがあった。あとは森に囲まれたちょっとした合間に、少しの広場があるところだった。
そこで父親とバドミントンをやったりした。この風景を見るといかにボロボロの家に住んでいたかがよくわかる。鶏小屋に卵を取りに行っては、それを食卓に並べて食べていたのは記憶にある。

僕の自宅は田舎だった。だから僕と妹が外出するときはおばあちゃんがつき添いに出て、迷子にならないように、ちゃんと日が降りるまで帰ってくるようにとつき添って歩いてくれていた。

すると、またもう一人の妹が生まれた、えみこさんです。えみこさんができたら5人家族になって、時々5人で一緒に家族旅行をするようになった。

僕は幼稚園に通っていた。自宅から歩いて10分くらいの幼稚園、そしてそばには小学校があったので、運動会などをやっていた。


遊んでばっかりいたので気がつかなかったんだけど、歌はうまかった。でもこの頃からどもり(吃音)になるようになった。そして大きな交通事故にも巻き込まれた。あやくトラックにひかれるそうになって、トラックの下敷きになりそうになったことがあった。どもり(吃音)が起こったのは、そうした不慮の事故が、きっかけだったのかもしれない。
小学校1年生の時、先生から自己紹介をしなさいって言われて、みんなの前に立たされて、そしたら自分は鈴木吉彦っていう自分の名前の「す」という言葉も言葉に出せなくて、そのまま席に座らせられたことは、今でも忘れられない、辛い思い出になっている。


ここに小学校の写真はほとんどない。近くに最上川があったので、そのせいか川に行って泳いだり、酒田のおじさんに連れられて海に行ったり、そうした思い出ぐらいしかない。
あとほとんどの時間は友達と野球をやっていた。野球をやってれば言葉は使わないし、野球がうまかったので4番で3rdだった。だから朝から学校が終わるとすぐ野球をやって、日が暮れると家に帰ってきてすぐ寝て、そんな毎日を暮らしていた。
すごく重症などもり(喫音)だったので、友達はできなかった。でも小さい頃からどもりだと、友達ができなかったことがそんなに寂しいとは思わなかった。できないことが当たり前だと思うと、それを気にする気持ちすら感じなくなっていた。全部、野球というスポーツで紛らわせていた。
授業が、終わるとすぐ小学校の運動場に行って野球やる。日が暮れるまで野球やって帰ってくる。
そんな毎日を暮らしていた。


あの頃のこと
小学校の頃、僕はとにかく野球が好きだった。
一年生から六年生まで、ほとんど毎日グラウンドにいた気がする。土の匂いとか、夕方の少し冷たくなる空気とか、仲間の声とか、そういうものが全部、当たり前にそこにあった。
正直に言えば、あの頃はそれ以外のことは何も考えていなかった。野球ができればそれでよかったし、それがずっと続くものだと思っていた。
でも六年生の夏ぐらいになって、急に母親が「勉強しなさい」と言い出した。
中学受験をするから、勉強をしろということだった。
僕はその意味がよくわからなかった。
田舎に住んでいた自分にとって、「受験」とか「いい学校に行く」とかいう話は、どこか遠い世界の話のように感じていた。
山形市に通って、山形県立付属中学校を受験しなさい、と言われた。
でもそれがどれだけ大きなことなのか、そのときの僕にはまったく実感がなかった。
ただ、母親の言うことだから従うしかなくて、仕方なく勉強を始めた。
あんなに勉強が嫌いだったと思ったことはない。
本当に、涙を流しながら勉強したのは、あの時期だけだと思う。
机に向かっても気持ちは全然そこになくて、頭の中にはグラウンドのことばかり浮かんでいた。
外に出れば、きっといつも通り野球ができるんじゃないか、そんなことばかり考えていた。
でも現実には、ノートと鉛筆の前に座っている自分がいるだけだった。
それでも時間は過ぎていって、気がついたら受験の日が来ていた。
正直、ちゃんとできたという感覚はなかった。
それでも、なんとか合格することができた。
あとで先生から聞いた話では、280人中、後ろから3番目での合格だったらしい。
ぎりぎりだったけれど、それでも確かに受かった。
あの時のことを思い返すと、あれほど嫌だった勉強の時間も、無駄ではなかったのかもしれないと思う。
でも同時に、あの頃、夢中で追いかけていた野球の時間も、やっぱり自分にとっては大切なものだった。
どちらもなかったら、今の自分はなかったんじゃないか。
そんなふうに思うことがある。
