父方の祖先
鈴木傳太郎
明治35年4月5日生まれ。本郷村大宇本郷乙35番地
妻:おふじ
明治34年5月27日生まれ。本郷塩の串
結婚:大正8年8月29日。本郷乙35に住む。
子供
ふじえ 大正9年2月18日 本郷乙35番地
啓一郎 大正11年6月25日 本郷乙35番地
吉蔵 大正14年7月15日 (終戦の時、満20歳。私の父。)
啓 昭和3年1月1日 朝鮮 京城府綿町164番地
重利 昭和4年6月3日 朝鮮 京城府綿町164番地
恒考 昭和7年2月14日 朝鮮 京城府綿町164番地
久子 昭和10年2月14日 朝鮮 開城府元町20番地
佳子 昭和12年7月19日 朝鮮 木浦府山亭里203-2番地
猛 昭和14年10月5日 朝鮮 木浦府山亭里203-2番地
和子 昭和17年11月27日 朝鮮 威無府盤龍台町8番地
日本の第二次世界大戦(太平洋戦争)の終戦は、1945年(昭和20年)8月15日の玉音放送により国民に伝えられた。
昭和35年9月30日、 全員が日本戸籍に戻る。
大江町本郷乙 35番地に移転
昭和40年1月19日 鈴木吉蔵が開業医として自営するために、山形県中山町長崎454番地に移転する。
傳太郎と、おふじは、幼なじみであった。
傳太郎は長男で農家を継ぐべきだったが、自分は別の道を進みたいと覚悟し、母、長女、長男、次男を本郷においたまま、一人で朝鮮に住んでいた。朝鮮では、姉、まつよ(庄司)のもとを頼っていった。
まつよが、夜中に、トントンと音がするので誰だ!というと、傳太郎です、突然、来てすみません、といって押しかけていったらしい。
姉、まつよの元でお世話になるうちに、刑務所職員募集、の公募をみて、すぐに応募し、見事1位で合格した。その後も、次々と昇格試験に合格し、ついには所長となる。
文武両道はすばらしかったらしい。
終戦が近づくと、これからの子供は、医者か教師が良いと子供たちに教育し、吉蔵だけは医者の道を選択する。他の子供は教師の道を選択する。
日本に戻って、最初は稲作をしていたが、後に、田圃を鯉井戸に変えた。傳太郎さんの独自の発想の転換だった。その後、農協などの役員も依頼されていた。吉蔵が開業すると、医療事務と株式、鮎釣りをしていた
。
株式はグラフを書きながら、本格的に株式で収入を得ていた。
長男; 啓一郎について
出征する時、母のおなかには和子おばさんがいた。
「おふくろ、元気な子供を産むんでよ。その子は、おれがみてやるからな」と言い残して、沖縄戦に向かい、地雷を踏んで死亡。
皆に尊敬される人柄だったという。


